先週末の花火と海の写真を何度もスクロールしながら
夏が終わるなんてまだ先でしょ、と心の中で言い張る。
写真の中の私達は、まるで夏しか知らないかのように笑っているのに、
空を見ると少しずつ秋空に移り変わっていて、あの日を思い出した。
一年前の今日、私は倒れた。文字通り、バタンと倒れた。銀座のApple Storeで。
それは突然で、わたしは何かを待ちながら充電してて、gmailを開いてた。
30分くらい経ったころ急に苦しくなって(お腹が痛くなった気がする)
あ!!と思うことなく意識を失ってた。
少し時間が経った。
空白の、静かな時間。
白い、遠くの方から声がして、
目を開けていいのか一瞬迷った。
瞼をゆっくりあげると光が差し込んで眩しくて、
でも何十人も、上から覆い被さって心配して顔を覗き込んでるのがわかった。
映画か、マンガみたいだ。と咄嗟に思った。
でもなにこれ?恥ずかしい!「す、すみません」と思って立ち上がろうとしたら
数人に「だめ!!」と言われた。
抑えた左手が赤かった。頭から血が出ていたのだ。
救急車呼んであるからちょっと待ってね、と近くの警備員さんが言った。
「棒のようになってね、バタン!と凄い音して倒れたんだよ。おじさんびっくりしたよ。
君のそのお団子が頭守ってくれたんだね。とにかく動いちゃダメだよ」
横になるしかない。
みんなが話しかけてくれるけれど小さい声でしか返せない。
どちらかというと元気の有無より恥のほうが大きかった。
ラグビーの試合で見るようなタンカに載せられ救急車へ。
そのなかで、ココから一番近いのは、、聖路加病院!と言われる。
時間を見ると、17時半。
救急車の中で隊員さんに控えめに言ってみた。
「あの・・・20時から、大事な打合せがあるんですけれど・・間に合うでしょうか」
20時からFMラジオ番組出演前の打合せがあり、とても楽しみにしていたのだが、
一蹴された。
「あんた!脈が止まったんだよ、この期に及んで何言ってるの。看護婦さんが偶々脈とってくれて、脈がないっていわれたんだよ。はい、この携帯でご家族に電話するから番号言って」
高齢者でも分かりやすくしてあるピンク携帯を取り出して、おじさんはいった。
病院につくと、救急用の検査が始まった。
わたしは、情けなくて涙が出て来た。
仕事帰りに駆けつけた父は、「自殺しようとしたのかと思った。キョラさん(母の事)に又怒られると思った」といった。
母は実家からすごいスピードで来た。
わたしは、とにかく恥ずかしくて申し訳なかった。
自分が世の中で役立たない人間というだけでなくて、さらにこんなに迷惑をかける人間という事が、情けなかった。
「検査入院です。今は特に問題ないのですが、脈が止まっていたというのが気になりますね。最悪、心停止の可能性がありますので、3日間入院して下さい」
ICUに入れたいのですが現在満室のため、そのすぐ横の部屋に入っていただきます。
精悍な顔つきの若い先生が深刻な顔をして言ったのは、そんな言葉だった。
それからは、翌日まで検査が続く。入院、車椅子、MRT全てが初めての経験。
看護婦さんは本当に優しい。先生方はいつ寝てるのか不明な程夜中もやって来てくれた。
医学は理科だ。仮設を立て、一番深刻なものから順に実験(検証)されていった。
わたしは2日目にもう一度気を失った。
それは、自律神経の検査、実験をされているときだった。
つまり、自律神経が弱っている。簡単にいえばそういうことらしい。
俗にいう自律神経失調症、とうのに近い、と先生は言った。
直接的な原因はないが、ストレスが多いときになりがちだ、と。
ストレス。
当時の私はストレスなんて生まれそうにない生活をしていた。
フランスに短期留学、イタリア旅行を経て帰国。
その後も富士山に登ったり海にいったり飛騨高山に遊びにいったりと
自由奔放に過ごしていた。
自由と言えば、私はその数ヶ月仕事をしていなかった。
事情により前職を辞めて、私は日本のファッションを海外へ出す事を実現できることに従事したいと思っていた。
リーマンショック後沢山のアパレル工場が潰れるのを見て来た事
そしてアピールが下手な日本のファッションビジネス界になにかしたいと思っていた。
しかし実際にフランス留学から帰って来てエージェントに紹介されて受けるところは
どうしてもずれがあり、受かっては辞退という大変申し訳ない事を数回行っていた。
さすがに自分が嫌になっていて、
世間に申し訳なくて、
暑い部屋の中で一人ぼーっとして、自分がいなければいいのに、と思っていた。
その頃同じように暗い気持ちを辿っていた親友と、もう一人の親友との3人のLINEが心の支えだった。
とはいえ、折角なのでLunchTripの活動も頑張った。
夏には2回大使館便を行い、9月にはビジネス開催とマヌーさんを掲げた便も控えていた。
充実していたし、この勢いでLunchTripをビジネス化させたいという思いもあった。
でも、私は稼いでなかった。経済活動を止めてしまっている。
世の中で必要とされる事は何一つ行っていない、と思った。
超のつく保守派の父は、前の安定した会社を私が辞めた事を悔いていた。
「最近、何してるの?」そう聞かれるのが嫌で、
LunchTripと高校の親友以外、殆ど人に会えなかった。
やりたいと思うぼんやりとした事にとらわれすぎて
一歩前に進まなくてはいけないのに
自分の首を絞めていることは気づいていた。
--
今日も朝から先輩も後輩も友達も親も企業で働いていると思うと
育ててくれた上司の顔を思うと
なんてダメな人間なんだろうと思い、世間に申し訳なく、自分を責め続けていた。
夏が終わるなんてまだ先でしょ、と心の中で言い張る。
写真の中の私達は、まるで夏しか知らないかのように笑っているのに、
空を見ると少しずつ秋空に移り変わっていて、あの日を思い出した。
一年前の今日、私は倒れた。文字通り、バタンと倒れた。銀座のApple Storeで。
それは突然で、わたしは何かを待ちながら充電してて、gmailを開いてた。
30分くらい経ったころ急に苦しくなって(お腹が痛くなった気がする)
あ!!と思うことなく意識を失ってた。
少し時間が経った。
空白の、静かな時間。
白い、遠くの方から声がして、
目を開けていいのか一瞬迷った。
瞼をゆっくりあげると光が差し込んで眩しくて、
でも何十人も、上から覆い被さって心配して顔を覗き込んでるのがわかった。
映画か、マンガみたいだ。と咄嗟に思った。
でもなにこれ?恥ずかしい!「す、すみません」と思って立ち上がろうとしたら
数人に「だめ!!」と言われた。
抑えた左手が赤かった。頭から血が出ていたのだ。
救急車呼んであるからちょっと待ってね、と近くの警備員さんが言った。
「棒のようになってね、バタン!と凄い音して倒れたんだよ。おじさんびっくりしたよ。
君のそのお団子が頭守ってくれたんだね。とにかく動いちゃダメだよ」
横になるしかない。
みんなが話しかけてくれるけれど小さい声でしか返せない。
どちらかというと元気の有無より恥のほうが大きかった。
ラグビーの試合で見るようなタンカに載せられ救急車へ。
そのなかで、ココから一番近いのは、、聖路加病院!と言われる。
時間を見ると、17時半。
救急車の中で隊員さんに控えめに言ってみた。
「あの・・・20時から、大事な打合せがあるんですけれど・・間に合うでしょうか」
20時からFMラジオ番組出演前の打合せがあり、とても楽しみにしていたのだが、
一蹴された。
「あんた!脈が止まったんだよ、この期に及んで何言ってるの。看護婦さんが偶々脈とってくれて、脈がないっていわれたんだよ。はい、この携帯でご家族に電話するから番号言って」
高齢者でも分かりやすくしてあるピンク携帯を取り出して、おじさんはいった。
病院につくと、救急用の検査が始まった。
わたしは、情けなくて涙が出て来た。
仕事帰りに駆けつけた父は、「自殺しようとしたのかと思った。キョラさん(母の事)に又怒られると思った」といった。
母は実家からすごいスピードで来た。
わたしは、とにかく恥ずかしくて申し訳なかった。
自分が世の中で役立たない人間というだけでなくて、さらにこんなに迷惑をかける人間という事が、情けなかった。
「検査入院です。今は特に問題ないのですが、脈が止まっていたというのが気になりますね。最悪、心停止の可能性がありますので、3日間入院して下さい」
ICUに入れたいのですが現在満室のため、そのすぐ横の部屋に入っていただきます。
精悍な顔つきの若い先生が深刻な顔をして言ったのは、そんな言葉だった。
それからは、翌日まで検査が続く。入院、車椅子、MRT全てが初めての経験。
看護婦さんは本当に優しい。先生方はいつ寝てるのか不明な程夜中もやって来てくれた。
医学は理科だ。仮設を立て、一番深刻なものから順に実験(検証)されていった。
わたしは2日目にもう一度気を失った。
それは、自律神経の検査、実験をされているときだった。
つまり、自律神経が弱っている。簡単にいえばそういうことらしい。
俗にいう自律神経失調症、とうのに近い、と先生は言った。
直接的な原因はないが、ストレスが多いときになりがちだ、と。
ストレス。
当時の私はストレスなんて生まれそうにない生活をしていた。
フランスに短期留学、イタリア旅行を経て帰国。
その後も富士山に登ったり海にいったり飛騨高山に遊びにいったりと
自由奔放に過ごしていた。
自由と言えば、私はその数ヶ月仕事をしていなかった。
事情により前職を辞めて、私は日本のファッションを海外へ出す事を実現できることに従事したいと思っていた。
リーマンショック後沢山のアパレル工場が潰れるのを見て来た事
そしてアピールが下手な日本のファッションビジネス界になにかしたいと思っていた。
しかし実際にフランス留学から帰って来てエージェントに紹介されて受けるところは
どうしてもずれがあり、受かっては辞退という大変申し訳ない事を数回行っていた。
さすがに自分が嫌になっていて、
世間に申し訳なくて、
暑い部屋の中で一人ぼーっとして、自分がいなければいいのに、と思っていた。
その頃同じように暗い気持ちを辿っていた親友と、もう一人の親友との3人のLINEが心の支えだった。
とはいえ、折角なのでLunchTripの活動も頑張った。
夏には2回大使館便を行い、9月にはビジネス開催とマヌーさんを掲げた便も控えていた。
充実していたし、この勢いでLunchTripをビジネス化させたいという思いもあった。
でも、私は稼いでなかった。経済活動を止めてしまっている。
世の中で必要とされる事は何一つ行っていない、と思った。
超のつく保守派の父は、前の安定した会社を私が辞めた事を悔いていた。
「最近、何してるの?」そう聞かれるのが嫌で、
LunchTripと高校の親友以外、殆ど人に会えなかった。
やりたいと思うぼんやりとした事にとらわれすぎて
一歩前に進まなくてはいけないのに
自分の首を絞めていることは気づいていた。
--
今日も朝から先輩も後輩も友達も親も企業で働いていると思うと
育ててくれた上司の顔を思うと
なんてダメな人間なんだろうと思い、世間に申し訳なく、自分を責め続けていた。
結局退院後、転職活動は全て辞めて
LunchTripとFashionFlightというブログをメインに動き出した。
二ヶ月に一度開催だったLunchTripはなんと一ヶ月二回開催していたこともあったし、
ブロガーとして声をかけてくれるひとが増えて、航空会社のプロモーションを手伝ったり、
新聞記事コラムを書くようになった。
私のブログを好きだと言ってくれた海外の会社からマーケティングを頼まれたり、
憧れだったコレクションショーの裏で働く事も出来た。
もちろん旅も続け、去年は9カ国に旅した。
友人や大使館の縁でライターや通訳、イラストの仕事を持つ事ができた。
就職活動ではなくて、
好きなことを本気でやりだしたら段々繋がって、それが仕事になっていった。
とはいえ、私の仕事が全て順調と言えばそうではない。
フリーランスに安定なんてないから、地獄のフリーランス、と私は呼んでいる。
頼まれる仕事量はまだまだ余裕があるし、
一つのスキルに集中して伸ばしていったほうがいいのではないか、という思ったりもする。
LunchTripの収益化にはまだ時間がかかっている。メディアに急に注目されはしたけれど。
あの一年前倒れたときには見れなかったものを、この目で沢山みることができた。
ICUという契機が思いもよらないことに導いてくれたとしたら
私はあの機会に感謝したいくらいだ。
そして、あの時に助けてくれたAppleの店員さん、看護婦さん、警備員さん、
病院のイケメン先生、美人な看護婦さん達、
私の事を覚えていても覚えてなくても、いつか感謝を伝えたい。
まだまだ、満足していませんが、ね。